About Hideki Okisaka


【沖坂秀樹氏のこと】


 私がこうしたホームページを立ち上げるきっかけを与えてくれたのは、他でもない沖坂秀樹氏と出会ったからである。氏の創りだす服に魅了された紳士諸兄は数多くいると思うが、私も氏の創る服に狂信的なまでに魅了された一人であることは間違いない。惜しくも2008年夏に急逝された沖坂氏について、ここではやや長くまた散文的になってしまうが、氏のことについて書いてみたいと思う。


沖坂秀樹氏との出会い

 氏は1930年代をテーマにした「Draper’s Bench」という紳士服店で企画をされていた人物だった。沖坂氏のことについて、そして30sのスタイルについて語る時、この店のことを語らずにとおることはできない。

 私が渋谷にあったこのショップに初めて足を踏み入れたのは、89年か90年の頃だったかと思う。そのときの衝撃は今でも忘れられない。その時は30'sのスタイルなど何も知らず、渋谷の遊歩道を散策がてらに何となくこの店に入ったのがきっかけだった。店内に入ると、まるで貴族の邸宅内にありそうな、店内の壁面一面に描かれていた絵と、独特のクラシカルな雰囲気、そして置いてある服飾アイテム群に、私ののんびりとした散歩気分が一気に吹っ飛び、目を覚まされたような感覚をもったのを覚えている。ハンガーに吊るしてある状態で背中にみえた「妙な皺(=ドレープ)」のついたスーツやジャケット類。当時トラディショナルなジャケットは必ずベントが入っているものと思っていた私の固定観念を覆す、ノーベントの仕様。シャツのコーナーを見れば、狭角のロングポイントカラーのシャツ。そして何よりも当時巷にあったどのブランドでも見たことのなかった股上の深い、ベルトレスのトラウザーズ。今でこそ珍しくなくなったものの、当時「ベルトをしないでブレイシーズで履く」トラウザーズというのも、私はそれまで見たことがなかった。そしてスーツやジャケットを試着したときの驚きはさらに大きなものであった。脇の下にギュツとくるフィーリング、胸から腹にかけて吸いついてくるような着心地。当時においてもそのフィット感は、他のブランドにはないものであった。そしてさらに着たときのそのシルエットの美しさに驚かされた。吊るした状態で背中に縦に走っていた皺は着ることで見事に消え、既製服とは思えない美しいラインを形成していたのである。これだけビスポークブームといわれる現代においても、この店で展開していたスーツやジャケットが、レディメイドでありながらあれだけのラインを出し、しかも比較的顧客に求めやすい価格帯で展開していたのは、ひいき目に言っても奇跡に近いことだったと思える。

 また一方でこの店には、企画の参考用にと取り寄せた海外の紳士服飾に関連する資料本がたくさん置いてあった。往年の俳優の写真集や服飾関係の洋書等、一般の書店ではなかなか入手できない貴重な書籍群には、洒脱なファッションドローイングや往年のハリウッド男優達のポートレートなど、今見ても胸をときめかせる図版や写真がたくさん掲載されていた。ロングポイント・シャツを着たフレッド・アステア、ベルトレスのトラウザーズを穿いたウインザー公、真っ白なタイトなダブルブレストのスーツを着込んだティノ・ロッシ・・。そうした資料を拝見させていただくにつれ、この店で展開する商品群は、そのような往年の時代の紳士服をベースにしたものであることが判ってきた。巷のファッション雑誌のネタとも思えるようなそれらの資料と、そんな雰囲気を再現していた服を展開していた同店は、私の今までの紳士服に関する知識を遥かに超えた世界を見せてくれていた。私はこのショップに、あっという間に魅了されてしまったのである。


 そんなスタイルの服を企画していたのが沖坂秀樹氏なる人物であることを知るのは、このショップに通うようになったもう少し後の話であった。

 あるときこのショップに伺うと、いつも対応するショップマスターの方とは別にもうひとり、妙なコワモテの男性が奥にいた。長髪を束ね、口髭と顎鬚を蓄え、独特の存在感を放つ人物。それが沖坂氏との初めての出会いであった。一見とても話をしづらい雰囲気に感じたのは束の間で、好きなことの話になるとついつい時間を忘れて話し込む私が、沖坂氏との服飾談義に華を咲かせるようになるのにそう時間はかからなかった。渋谷の店舗の奥にあったアンティークのテーブルの一角で椅子に座り、往年のEsquireAPPAREL ARTS等をめくりながら、ああでもない、こうでもない、と閉店後も氏と語り合った服飾談義の日々は、今思い出しても昨日のことのように新鮮に脳裏に蘇ってくる。私の人生の中でも最も楽しかったひとときのひとつでもあった。



沖坂氏がDraper's Benchでやってきたこと

 かような経緯で沖坂氏と知り合いになった訳であるが、この店は私が知る以前から、既に一部の熱狂的なマニアックな層から熱く支持されてきた店であった。90年代当時は英国回帰への潮流もあり、英国をテーマにしたヴィンテージショップや紳士服店は当時いくつか存在しており、そうした潮流の中でこの店も誕生した。当時こうしたスタイルの店はどこも素晴らしかったが、結果的には私はこのショップと縁があった。というより、このショップに惹かれたのである。

 この店のスーツがなぜかように一部の熱狂的な層から支持されていたのか、生前の氏とのやりとりの記憶を辿りながら、私なりに書いてみたい。


 Draper's Benchのスーツは、1930年代のヴィンテージのスーツをベースに作られていた。まずそのこと自体が当時にしては珍しかった。そのこと自体が当時の他のメーカーと明らかに違う雰囲気を製品に漂わせている大きな要因だった。実際、私も店舗で沖坂氏やスタッフが収蔵する1930年代当時のヴィンテージのスーツをいくつか見せてもらいながら、ドレープの服の仕様がどういったところから引用されているのか、詳しく教えてもらったことが何度もあったが、製品の各仕様について、どういう背景でそうした仕様にしているかを仔細に説明してくるショップは当時他にはなかった。特に沖坂氏は、状態の良いヴィンテージスーツばかりを着て店舗に立たれていたので、何度も羨ましく思ったものである。沖坂氏はドレープで企画をする以前に何度か渡英した際、生来のアンティーク好きな性格から地方のアンティークショップや蚤の市、そして古着店などをみて廻っていたという。そんな中で1930年代当時のヴィンテージスーツに出会うと、当時日本で紹介されているブリティッシュトラッドとは全く違う印象に驚いたという。そして自身が企画する服は絶対にこの時代の服をベースにしようと思ったそうである。つまりDraper's Benchのスーツは、沖坂氏自身が実際に見て、所有してきた数々のヴィンテージのスーツの雰囲気、匂いが色濃く反映されているのであり、この部分は独立後の氏の服創りにおいても根幹をなす部分となるのである。

 それと、彼は生前、しばしば自分の企画する服には何かしら「アンチテーゼ」を入れたいんです、と言っていたのを思い出す。それは言い換えれば「反体制」とか「世の中の流れに収まらない」といった意味合いにも置き換えられるかもしれない。同店のアイコン的なアイテムとなった「オックスフォード・バグズ」という、1930年代当時において非常にアバンギャルドだったアイテムが、そうした「アンチテーゼ」を象徴する役割を担っていったのは想像に難くない。当時においても、また現代において改めて見直してみても、このアイテムは異彩を放っている。歴史的に見ると1920年代後半〜30年代にかけて社会現象に近い勢いで英国から海を渡ったアメリカまで広まったこのアイテムは、元々は英国オックスフォード大学の学生が学内でニッカーズ着用を禁止された際に、その上から穿いたのが起源とされている。つまり規則に対して何かしら対策手段を講じた、若者の「アイデンティティ」を象徴するかのようなアイテムだったということである。(※詳細はColumn,1参照)


 かような次第で、同店はこのアイテムを頑なに展開し続けた。
その他にも、狭角に攻めたロングポイント・シャツであったり、高めのハイゴージで攻めた角度で仕上げるピークドラペルであったり、今でこそ珍しくなくなりつつある、スーツのウエストのシェイプさえも、当時のアパレルにおいては「アンチテーゼ」となりえる新鮮さとメッセージをもっていた。そんな様々な、美しくも癖のあるアイテム群や仕様から成るDraper's Benchの服飾品、そして同ブランドのイメージは、当時他メーカーが展開していたブリティッシュ・トラッドとは違う、伝統的で正しいというイメージ「だけ」ではないブランドとしての印象を見る者に植え付けていったように思えるのである。

 結果的にドレープの服は癖は強いのに、どこか高貴で孤高な雰囲気を漂わせる、独特な雰囲気のものとなっていった。いかにも古の当時、どこかに存在していたであろう、癖のある貴族の紳士が着ていたかのような、そんな雰囲気を漂わせるものとなっていった。かような次第でこのブランドの服は、マニアックな英国スタイルの傾倒者たちを魅了していくこととなった訳である。


沖坂氏の新たな展開 〜 SAVOY dressmaker の立ち上げ

 沖坂氏と閉店後食事に出かけるようになったある日、氏から会社を辞めることを告げられた。そして自分のやりたいスタイルの服をつくりたいという話をされた。私は、既に当時このサイトを立ち上げたばかりであったので、いわゆる「ファンサイト」の立場でお手伝いできることがあれば是非応援させていただきますという形になった。

 
氏がやりたい服づくり、それは至ってシンプルであった。今までやってきた路線をさらに追求し、探究すること。そのことに他ならなかった。それは、本来あるべき紳士服の姿、あり方を追求することであり、すなわちスーツの様式が出来上がった頃の「原点」を追求するということであった。それはつまり、氏が英国で出会った、数々の往年のヴィンテージのスーツの姿を追求することでもあった。紳士服が現代につながるほぼ同様の様式は1930年代に完成を遂げる。それ以降はディティールや仕様に時代時代の細かい変化を経て現代に至っているにすぎない。その変遷を踏まえた上で、いまいちど"紳士服本来の姿"とは何かを問い、その姿に立ち返りたいというのが氏が私に語っていたことであった。そして氏が新たな活動をする上で大事にしたことは「自分が納得できる仕上がりに拘り続けること」であった。それはつまり、できるだけハンドメイドにこだわり、手間暇をかけて仕上げること。それはとりもなおさず、ある意味現代の商業主義、マスプロダクトのものづくりの流れに対して逆行する試みでもあった。現代は世の中が便利になった一方で、資本主義経済の原理の中で求められる効率さゆえに、「本来手間をかけてつくられていた部分」がマスプロダクト化の過程で捨て去られていった。その「手間暇をかけていた部分」に、その「物」に宿る良いもの、言い方を変えると「本物」としての「質」が宿っていると語っていた。

 かような経緯で、氏はSAVOY dressmaker を立ち上げた。余談であるが、このブランド名は、独立後すぐに決まったものではなかった。いくつかのネーミング案を氏から相談され、また私も参考までにいくつかご提案もしたがどれもしっくりくるものがなく、「まぁ、しばらくは無名でやりますわ(笑)」ということになった。ネーミングが決まったのは氏が独立してから実は3年ぐらい経ってからである。突然、氏から「(ブランドの)名前、決めました。」といってサラリと伝えられたのが、「SAVOY dressmaker」というものであった。詳しくは聞くこともなかったが、「なんか、昔どっかにありそうなテーラーぽいでしょ。」と言っていた。SAVOYというのは、ロンドンにある劇場やイタリアの王家(サヴォイア家)、フランスの地方など、ヨーロッパの各地で聞く名前でもあり、出自が不明な名前でもある。それでありながらどこかしら高貴でもあり、リゾート地っぽい雰囲気も感じさせる。それに「dressmaker」という職業名をつけることで、かつてどこかにあった仕立屋のイメージを漂わせるネーミングとしたようである。


試行錯誤〜スタイルの完成まで

 さて、そんな沖坂氏に独立後初めてオーダーをして出来上がったスーツは、当然のことながら素晴らしい出来であった。様々な制約や条件がある中でものづくりをしていたドレープの頃でさえ、あれだけのこだわりを見せていた氏が、さらにそうした制約を考えずにスーツを創るのだから、良くならないはずがない。着たときの適度な緊張感を伴うキュツとした着心地、そして往年の紳士がポートレートの中で着ていたかのような雰囲気のスーツに、私は感動を覚えた。

 ただし、私としては満足していても、沖坂氏はあまり満足していないようであった。想像するに、沖坂氏のディレクションと縫製の職人の縫い方のツボなどがうまくハーモニーとして調和してくるまでにはやや時間がかかったようである。見方を変えれば、私は大枚をはたいて仕立てを何回もお願いしていたにも関わらず、ある意味沖坂氏の実験的な顧客というニュアンスもあったことは否めない。その過程で、氏の服づくりに関して口論し、時には激論を交わしたことも何度かあった。そういう意味では、氏と私の関係は、もはや一顧客の立場を超えていた。むしろ顧客という立場を超えたスタッフ、おこがましい言い方をすればアドバイザーといったスタンスに近かったと思う。顧客の立場としてはこういうのは本来あるべきではないのかもしれない。それでも、いいものを創る上での私と氏とのディスカッションや口論、顧客とカスタマーという立場を越えた意見のぶつかり合いは繰り返し行われた。ときには寂れた喫茶店の片隅で、ときにはOLの多いやや場違いなパスタ店で、またときには氏の事務所で。だが今から思い返せば、このような独立して初期の頃、氏と共にああでもない、こうでもないと激論を交わしながらスーツを創り上げていった時期の方が、共にクリエイションをしているという充実感があった。その経験は、物としてではなく、私の人生の思い出としてとても貴重な経験となった。



「本物」であることの手応え

 沖坂氏とのディスカッションと試行錯誤を繰り返しながら、氏のプロデュースするスーツはより完成度を高めていった。このサイトで紹介していくうちにオーダーする方も少しづつ増えていった。定期的にオーダー会をされてはどうかという話も私が提案したものであった。オーダー会の場所も、時には私が仕事で知り合ったあるイラストレーターのご主人が経営されている店のスペースを紹介もしたりした。それがきっかけで、沖坂氏のホームページを制作していただける方とも知り合うことができたのは、人と人との巡り会いの縁を感じる。

 スーツのオーダーが増える一方で、このサイトへの問い合わせも増えていった。特にアクセス数があがっていくと、相互リンクを申し出てくるサイトが増えてくる。そんな中で驚いたのは海外からの問い合わせやリンクの申し入れであった。フランスの有名な紳士服店MARC GUYOT氏の経営するCAPE CODのサイトや、エルメスの革職人であったというバックボーンをもつHERVE N氏からのリンクの申込みというのは、沖坂氏の創りだす服のクリエイティブ、クオリティが海を越えた世界でも、あるレベル以上の人々に評価されているという証とも思えた。流行とは距離をおいた沖坂氏の創りだしていたスタイルが、海外で評価されているのは、まさしく氏の創る紳士服が「本物」であるという手応えを感じるものであった。

 そうした手応えを特に確固たるものとして感じたエピソードがもうひとつある。ある時、海外からわざわざ沖坂氏と会いたいという問い合わせがきたことであった。面会場所に指定された場所は帝国ホテル。待ち合わせのロビーへ赴くと、アジア系の男性とヨーロッパ系の男性二人が待っていた。聞けば沖坂氏のスーツは、当サイトで紹介しているうちに、イギリスとアメリカの紳士服に関する掲示板で、非常にホットな話題となっているそうで、その掲示板に普段書き込みをしている者の代表として我々が来た、というような話であった。二人のうちアジア系の男性の方が終始熱心に当日着て行ったスーツについて写真を撮りながら沖坂氏に質問をたくさんされた。尚この話には後日談があり、時計雑誌で活躍されているライターの名畑政治氏と別の時にお会いした際、名畑氏が海外取材に赴いた先のヨーロッパで、とある時計ブランドの社長と会食をしていたら、「そういえば何か月か前に日本に出張に行った際、アジア地区のディストリビューターに誘われて、素晴らしいスーツを作っているという日本人と会った。一人は長髪で髪を束ね、もうひとりは頭を撫でつけて口髭を生やし、まるで昔のテンノウのような雰囲気だった」という話がでたそうで、名畑氏はすぐにこの二人の日本人が沖坂氏と私であることを直感し、帰国後このお話を私にされた。この社長の名前を聞いて写真を見たら、なんとそのときにお会いしたヨーロッパ系の男性その人であることが判ったのである。

 いずれにしても、このような体験は誰でも経験できるようなことではなく、それはひとえに沖坂氏の創る服が、紳士服というものに歴史的にも目の肥えた外国の人々に評価されている、ということを感じさせる印象深いエピソードであった。



沖坂氏のスーツづくり、ものづくりにおける姿勢と感性

 さて、そんな奇妙な体験をしながらも、氏は少しずつではあるが、興味をもってくれた顧客に対して、真摯な姿勢でスーツをプロデュースし続けていった。それは現代のマスベースのアパレルの「商売」として見ると、作り方ややり方自体が恐ろしくOld Style であったかもしれない。それでも少しずつ発注が増えていくにつれて、氏のスーツはさらに完成度を高めていった。
 
 氏はものづくりに対して、真摯でストイックなまでのこだわりを見せる一方で、自身の感性やフィーリングを大事にする人でもあった。それは、彼にスーツの仕立てをお願いしたことのある紳士諸兄ならどなたでも何かしら感じたことがあるであろう。氏は、顧客からスーツのオーダーを受けるときには、顧客のキャラクター、選んだ素材、そうした部分から彼なりの顧客へのプレゼンテーションが必ずあった。釦の色、裏地の色、ラペルのスタイル。フロントの仕様、ウエストコートの仕様。基本的には顧客の要望にすべて従うべき部分でもあるパーツも、顧客が迷っていると、彼なりの考えを背景に、「おすすめ」をさり気なく提示することが多かった。私はそれにしばしばハッと感じさせられることがあった。

 私はそんな氏の感性をもっと知りたいと思い、いつもスーツが仕立てあがると受け取りの際に必ずそのスーツを沖坂氏ならどういうコーディネーションをするのか、と聞いていた。氏はいつも「それは○○さんのスーツだから、○○さんがしたいようにすれば良いことです」といいつつも、必ず彼なりの合わせ方を教えてくれていた。

 そんな沖坂氏であるがゆえに、感性的におりあえない顧客とは、決して無理して付き合おうとはしなかった。私はしばしば、感性的におりあえない顧客と議論をした末にお仕立てを辞退したという話を氏からいくつか聞いたことがある。その多くは、大概作り手(=創り手)に対するリスペクトのない顧客が殆どであったことも付記しておきたい。やはり素晴らしいものをつくるのは、顧客だけでもなく、一方で作り手だけでもない、顧客の要望を形にしていく作り手に対するリスペクトがある関係の中で素晴らしいものは出来上がっていく。これはスーツだけに限らず、芸術、文化、世の中の多くのものがそうであるように思えるのである。


 氏はまた、世の中のトレンドに対するアンテナが驚くほど鋭い一方で、それをあっさり、サラリとかわすようなところもあった。特に一時期ビスポークブームがきた時期に、氏はやたらにボタンホールを開ける着こなしや、お台場仕上げについて個人的には懐疑的であった。それはその仕様自体に対しての是非ではなく、やみくもにそれをありがたがる日本人の傾向について、何でもかんでもこれが良いという価値観にみんなが流されること、そこに異議を唱えていた。だから日本には「スタイル」を確立している人が少ない。そう語っていたのがとても印象的であった。

 紳士服というのはある一定の変わらぬ原理原則がある。だから、正しい紳士服は流行とは関係なく長く着られる。よく聞く言葉である。これは確かに正しい。でも着る側の感覚や目が肥えてくると、やはり同じ原理原則がある中でつくられるはずの紳士服が、テーラーや紳士服店、デザイナーによって、それぞれ違うことが見えてくる。そこに創り手のスタイルやクリエイティビティを垣間見ることができるのである。私は紳士服の面白いところはそこに尽きると思う。そんな感覚をもって沖坂氏の創っていた服を見ると、やはり彼ならではの感性が存在していた。それは奇しくもぐっどうっど氏が「癖は強いが、上品で、美しい。」と評した言葉に尽きると思える。氏の創りだしたスーツ、シャツ、タイ、すべてのアイテムには、私が今まで出会ったどの服にもない「品」と、なぜかそれと相反する「バサラ」な雰囲気、あるいはナイフのように鋭い「エッジ」ともいうようなニュアンス、が存在していた。世の中には「正しい」服は数多ある。でも正しい「だけ」の服が多いのも事実である。世の中には「控え目な」服はもっと数多ある。でも、控え目な「だけ」の服が多いのも事実である。そしてそんな控え目な服が、着手によってただの「地味な」服に見えてしまう例も多いのも事実である。そんな現代の服飾業界の数多ある紳士服の中で、沖坂氏の服は間違いなく「オンリーワン」の存在感を放っていた。見方によっては既存の商業主義の世界とは全く別の次元に沖坂氏の服はあったとも言える。そんな紳士服は現代の日本に他にはまずないであろう。


沖坂氏と最後に会った日のこと

 沖坂氏は、毎年夏になると、体調を崩しがちで、事務所の方も休みがちだった。
今年もそんな季節がやってきたなぁと思いながら、梅雨も明けたばかりの頃、私は仕事で多忙を極めた合間をなんとかぬって久しぶりに事務所に氏を訪ねた。

 この日は、氏のいつもと違う様子が私は気になった。妙に元気がないなと思った私は、大丈夫ですか?どうかしたんですか?とお聞きした。
「・・・実は実家に帰ろうかと思ってるんです。」という話だった。
聞けば、ご実家は母親が一人暮らしで、そろそろ帰って見ようかと思っている、とのことだった。東京へは年2〜3回受注会にきて、それ以外は実家にいようかと思っている、という話を打ち明けてくれた。

「どう思います?」と沖坂氏。
「そりゃあ、沖坂さんの決めることですから、私は沖坂さんが決めたことを応援するまでですよ。」と申し上げた。そんな私の返事を聞いて氏は
「実は、実家から車で二十分くらいのところに、海が見える小高い丘があるんですけど、その上に物件があってそこを事務所に借りようかと思っているんです。」
との話だった。

「そうかぁー、海の見える丘ですかぁ・・・。」
私はそのとき、妙にその「海の見える小高い丘の事務所」の風景が脳裏に浮かんだのを覚えている。銀座の雑居ビルの狭い事務所の中で、沖坂氏と二人、「いいですねぇ・・。」と想像していたひとときは、まるで時空がその事務所に移ったかのような、そんな錯覚を覚えた。

「是非、実家の方にもにも来てくださいよ。ご案内しますから。」

「そうですね、是非。」

その日は、そのためのサイトでの告知についての段取りを追って相談しましょう、と言って事務所を出た。

これが、沖坂氏と会った最後だった。



英国の紳士服ブランドのデザイナーにも認められたスタイル

 
沖坂氏が逝去された後、私はさらにもうひとつ、とても興味深い経験をした。
イギリスの有名な紳士服ブランドのプレスカンファレンスが英国大使館で開催された時の話である。

 私はそのプレスカンファレンスに沖坂氏に創っていただいたスーツを着て行った。そのブランドのCEOは当日会場に多くいる人々の中から、名刺も交換していない私のところに一直線に来て、ラペルを指で撫でながら開口一番こう言われた。“Nice suit.”彼は私の着る、およそ現代のトレンドとはかけ離れた雰囲気のスーツのラインを見てとり、これがひと目でハンドメイドであることが判った様子であった。「このスーツは1930年代のスタイルをベースにしている」と私が説明すると、“I know very well.”と微笑みながら返してきた。
 
 カンファレンスが終了後、彼はまた私のところに来て、「ちょっと来て欲しい。」と私を大使館内の庭園に連れ出した。そして私の着ているスーツを仔細に写真に収めて行ったのである。カンファレンスでのこのささやかな経験は、私に沖坂氏の創っていた服が「本物」であるという「確信」を与えてくれた、衝撃的な事件であった。


氏との別れ、今後

 人との別れは、本当に唐突にやってくる。

よく聞くような言葉だが、沖坂氏との別れほど、唐突にやってきた別れは、私の今までの人生の中では他にはなかった。
あまりにもサラリと我々の前から去ってしまわれた沖坂氏は、純粋に商売に徹しきれない不器用さと、自分自身が納得するまで良いものを創るという妥協のない姿勢をもった、稀有な人物であった。去り方まであの人らしいというのは不謹慎かもしれないが、それでも沖坂氏は最後まであの人らしい生き方をされたと思う。

 私の人生において、氏とつきあっていた時間はそんなに多くの時間を占めるものではないであろう。
それでもこの短い間に沖坂氏と、熱心に、ときには激論を交わしながら、共に何かを創るという作業ができたこと、この数年間という短くも密度の濃いあの日々は、私の人生において宝物とも言える貴重な時間であった。そんな時間を与えてくれた沖坂氏に、本当に心から感謝したい。

 沖坂氏が逝去された後から今までの間に、恐らく沖坂氏の顧客の中では最も付き合いが長かった、ぐっどうっど氏と話しあって決めたことがある。沖坂氏の創った服は、現代において万人が楽に着こなせるように都合良く「モディファイ」などされたようなヤワな服ではない。「紳士がこうあるべき」という時代に創られ完成された、いわばガチガチのスタイルである。だから着る人を選ぶ。着る人の気概も求められる。そしてそのようなスタイルに魅了された我々をはじめごく一部の服飾好事家は、紳士服のトレンドがどのような方向に流れても、根幹はここから動いてしまうことも決してないことも判っている。だから今後は、そんなスタイルを愛してやまない我々ごく一部の仲間内だけで造り続け、ずっと着続けていこうと考えている。拘りぬいて創られた「本物の紳士服」を、感性の分かり合える者同志だけで。
そしてこのサイトでの活動も、そうした一環として、ゆっくりと着実に展開していきたいと考えている。それが氏に対してささやかながらも我々ができる唯一のことであると考えている。





Legend Top                                 Next Page


All Contents Copyright (C) 2009 ESKY